5回にわたり、中学受験グノーブルの国語科の先生による座談会を連載いたします。

-中学受験を通して身につける国語の力-
最近の国語入試の状況、国語の力を伸ばすためには何が必要なのか、グノーブルの国語の指導や授業の特色などについて国語科の先生3名に語っていただきました。(『グノレット』16号掲載予定「グノーブル 国語講師座談会」より)

第2回 言葉に対する実感を積み重ねる授業

「国語力」とは何か

hyodou兵頭:国語で必要な力を一本の「木」にたとえて話をすることがあります。「木」は花や葉に目が向きがちですが、その元に枝があり、幹があります。そして、目には見えませんが土の中には根があるのです。入試では正解するための技術が重視されがちですが、それ以前に設問の理解、文章の構造の理解があり、さらに文章理解の背後には国語的常識やさまざまな言葉の実感というものがあるのです。現代の中学入試ではいわば「根っこの部分にどれだけ蓄積がありますか」「幹の部分がしっかりしたものになっていますか」が問われることが多くなっており、大きな差がつくのもこうした部分です。
 「国語力」というのは、この「木」全体を指してそう呼んでいると思います。語彙力であったり、読解力であったり、記述表現力であったり、そういうものの総体を「国語力」と呼んでいるのですね。
 だから、「うちの子は国語力」がないと不安になっても、それをまるごと解消するのは困難です。「国語力」とは、読解の力や知識などが全部つながった総体なのです。しかし、いちばん目につく「花」とか「葉」の部分に○や×がつくので、保護者の方々がご覧になると、記述が書けない、記号問題が苦手、それらをまとめて「国語力」がない、という話になるわけです。そのどこかがうまくいっていないと、結果としてテストで好ましくない得点として反映されますが、それを単に「国語力」がないと断ずるのは無意味だと考えます。

yamashita山下:私も「国語力」という言葉は使いません。
 たとえば、先月のテストで高い偏差値だったのに、今月のテストでは偏差値が下がったとします。よく見てみると出題分野が違っていて、今月はその生徒にとって得点を取りにくい領域が出題されていただけということだったりします。知識問題が得意だったら、その部分の出題の比重が減れば単純に得点も下がりますよね。またその逆のこともあるわけです。点数だけを見て「国語力」が落ちた、学力が落ちたと言う方がいますが、実は異なる側面を問われたので違う評価が出たにすぎないのです。生徒の「国語力」があるかどうかを真剣に考えるならば、一つひとつの分野での力を把握して、このテストはこんな配合で問われたからこういう部分で得点が取れたと言わなくてはならないのです。このように一概に「国語力」という言葉は使えないのではないかと思います。

oobayashi大林:「国語力」とは何かと問われたならば、中学入試で求められる国語の力であり、それは基本的には「自分以外の人が言っていることを、筋道立てて読み取る力」だと思っています。私は読解力があるのに記述力がない生徒はいないと思います。記述問題が書けないというのは、何を問われているのかがわからない、筋道立てて理解できないなど、いろいろな理由があると思います。書けないことの原因は、文章の内容や相手の言っていることをきちんと把握していないからです。

兵頭:問題を解いているときに、なかなか文章では表現できないという生徒もいます。その大きな要因のひとつは、設問の意味がつかめていないということです。同じ問題を授業中に講師が口頭で問うと、かみ砕いたシンプルな問いになるため、多くの生徒がきちんと解答できます。

山下:たしかに、生徒が書けない問題があって困っているときに「じゃあ今から設問文を音読する」と言って読み上げると、「あっ!」と言って書き出すという現象がけっこうあるのです。子どもは目から得る情報を大人ほど上手にとりこめないので、耳から音で入ってくる方がわかりやすいのでしょう。声に出すだけでわかるということはありますし、つまずきがちな生徒、また低学年の家庭学習では声に出してみること大切なことだと思っています。

言葉に対する実感を積み重ねる授業

兵頭:前回話題が出た家庭や社会の変化もあり、現在の子どもたちにとって「根っこの部分」となるべき、国語的な意味における常識や語彙に伴う実感がかなり薄くなっていると思います。たとえば「せつない」という言葉が、どういうときに使われて、どういう前後の文脈からそういう感情になるのかということに対する感覚は薄れていると言えます。ですから、「親心」とか「貧しさ」など実感することが難しい事柄については、授業の中で解説や説明に割く時間を意識的に多くしています

大林:生徒を見ていると、「日常生活の中でいろいろな経験ができていないのでは?」と思うことがあります。生徒自身はとても忙しく過ごしています。それが逆にさまざまな経験を能動的にする機会を奪ってしまい、それゆえ人の気持ちを慮る機会が奪われているのかもしれないと思います。

兵頭:生徒が自分ひとりで文章を読み解いて、なるほどと実感するのは難しいことも多いと思います。あるときに、戦時中が舞台となっている物語文で「ひもじい」という言葉が出てきました。「ひもじいという言葉を聞いたことある?」から始まって、よくわからないという生徒が多いので、戦争中は白米などなかなか食べられなかったというような話を、身ぶり手ぶりを交えたり、絵を描いたりしながら伝えていきます。
 その中で「ひもじいってそういうことか」とある程度わかってもらって、後の授業で「あのテキストで、ひもじいって出てきたじゃない」というつながりで結びつけていきます。このように先生や友達の言葉に耳を傾け、自ら考える体験の積み重ねのなかで、それまで知らなかった言葉がだんだんとふくらみを持ち、言葉に対して実感が伴っていくのです。

山下:先ほどの根っこの話ですけれども、かつての常識が常識でなくなっているというのはたいへん大きな問題なので、授業中の読解時間を多めに設定しています。読解問題をたくさん解いているのではなく、文章の時代背景について生徒とよく話をします。文章に出てくる事柄を、授業中に追体験してもらうための工夫です。生徒たちは具体例がないと頭に入っていきません。

大林:以前、授業中に「サザエさん」の話をしたことがあるのですが、「サザエさん」を見たことがないという生徒がいてけっこう困りました(笑)。家族構成から説明しながら進めたのですが、授業中のそういう会話こそが大事なのだと思います。

兵頭:問題文の著者の世代と生徒たちでは当然、生きた時代や生き方が違うので、そのままスムーズに文章に入り込めることは少ないのです。説明的文章で「生き方が多様になった」という話題が出てくることがありますが、逆に言えば昔は「これは常識だよね」で通じたことが多かったのです。たとえば少年だったら野球をしているとか。その頃の子どもにとっては、たしかに野球のルールなど常識でしたよね。異なる時代や社会それぞれに「常識」があることの理解は小学生にとってとても重要です。

国語講師座談会 出席者のご紹介

大林 和弘・兵頭 徹治・山下 倫央(中学受験グノーブル国語科)